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ドント・ストップ・ビリーヴィン(Don't Stop Believin') - ジャーニー(Journey)
2013-05-06 Mon 10:21
この曲は1981年発売のアルバム「エスケイプ」に収録され、このアルバムはジャーニー初の全米No1となりシングル「ドント・ストップ・ビリーヴィン」は全米9位となった。

ギターのニール・ショーン曰く「完璧」な作品だと言わしめている曲で最終の微調整において「本当に素晴らしい!」と自ら関心したほどだ。

そして、キーボードのジョナサン・ケインは「無邪気な前向きさが新鮮なんだ。夢を見る自由、置かれた環境を打ち破りより良い人生を切り開こうという自由は世代を超えて受け入れられるし永遠の理想かもしれない」と評価している。

美しいメロディを持つシンプルな曲だからこそ彼らの演奏が際立ち簡単に聴き流すことができないのだろう。そして聴く人を勇気付ける前向きなメッセージは時代を超え広く聴きつがれる。

70年代、音楽の聖地と呼ばれたサンフランシスコ、この町のあるレコーディング・スタジオで一人のギター少年のアメリカン・ドリームが始まった。

その少年は当時まだ15歳のニール・ショーンで、たまたまそのスタジオに遊びにきていた彼は、そこで何とエリック・クラプトンとドミノスのメンバーに出っくわしたのだった。

そしてそのままスタジオで数時間彼らとジャム・セッションをするという幸運に恵まれ、その後、さらにエリックから「ロンドンに来て一緒にやろう」とまで言われたのだった。

身に余る光栄と思いつつも、そのことを知った「サンタナ」からバンドへの加入を誘われ、けっきょく彼はサンタナへの加入を決心した。

サンタナの3枚目のアルバム「サンタナⅢ」から参加したニールだったが、つづく4枚目の名作「キャラバン・サライ」でバンドはつぶれ、メンバーだったキーボードのグレッグ・ローリーとともにバンドを脱退する。

そしてその後、「サンタナ」のローディでのちにジャーニーのマネージャーとなったハービー・ハーバートからピアノとギターを中心にしたバンドを作りたいから集めたメンバーに会ってくれと依頼され、ベースのロス・ヴァロリーと2ndギターのジョージ・ティックナーに会った

集まった当初は、サンフランシスコ在住のいろんなセッション・ミュージシャンとその時の気分でセッションをするというのが狙いだったのだが、時間の流れとともにバンドに変わって行き、結成当時のバンド名は「ゴールデン・ゲート・リズムセクション」だった。

ジャーニーは1973年に結成され75年に1stアルバム「Journey(宇宙への旅立ち)」でデビューし、当時のサウンドはプログレッシブなロック、そしてジャズ・ロックのテイストが濃いバンドだった。

そして1976年2ndアルバム「Look Into The Future(未来への招待状)」、77年3rdアルバム「Next(ネクスト)」と3枚のアルバムをリリースするも大きなヒットにはめぐり合えなかったが、商業的なヒットを狙うため「バンドの猛反対を押し切ってメンバーに迎え入れたのがボーカルのスティーブ・ペリーだった。

1978年、4thアルバム「Infinity(インフィニティ)」をリリース。スティーブが加入して彼の美声が加わったという利点もあったが、その声を十分に活かすだけの優秀なソング・ライターが加入したということも重要であった。

スティーブのハイ・トーンで伸びやかな歌声と作曲センスでバンドのカラーは一新され、レベルを一気に向上させたのだった。

サウンドの変化は6thアルバム「Departure(ディパーチャー)」から変化し始め、メロディ重視だったスティーブに沿ってニールもギターを弾くように変わっていった。

そしてジャーニーの新たなサウンドが確立される一方、このアルバムを最後にキーボードのグレッグ・ローリーが脱退、そのときグレッグが後任に推薦したのが前座を務めていたベイビーズのジョナサン・ケインだった。

ジョナサンはバンドの作曲能力をけた違いに加速させ、ジャーニーはさらにメロディックでポップなサウンドへと変化していった。

前任者のグレッグはブルース色が強く、一方ジョナサンはクラシック音楽を勉強しポップのバック・グランドもあり、ジョナサン・ケインの加入したジャーニーは絶頂期を迎えることになった。

1981年、ジャーニーは新たなアルバムの制作に入る。彼らの場合アルバムのタイトルの決定はすべてマネージャーのハービーの仕事で今回ももちろんハービーによる命名でそのタイトルは「エスケイプ」だった。

「狭い社会から飛び出し大きな夢を持つことを許してもらう・・・」これが彼らの考える「エスケイプ」でこのアルバムのテーマでもあった。

そしてブルー・カラーの若者たちに「夢を捨てずにがんばれば明日はきっと今日よりよくなる」という夢と希望を与える「人生の応援歌」をあつめたアルバムだ。

バラエティに富む曲が並ぶなか最後に作られたのが「ドント・ストップ・ビリーヴィン」でこの曲誕生のきっかけだったのは新メンバーになったジョナサン・ケインだった。

「ハリウッドでミュージシャンとして活動を始めたものの、まったくチャンスに恵まれず生活にこまり電話で父に助けを求めたことがあるんだ。『諦めてシカゴに帰ったほうがいいかな?』と聞くと父は『きっとチャンスがまわってくるからそこでがんばれ!お前が自分を信じないでどうする』と言ってくれた。

そして電話を切ったあとそのことばを無意識にメモしたことに気づいた。『いつか使える』とおもったんだ。

そしてアルバム『エスケイプ』の製作中にもう一曲必要になった。その時、歌詞ノートの中で目にとまったのがこの父の言葉だったんだ。そしてスタジオでニールとスティーブ、そしてジョナサンの三人であの曲は出来上がった。

スティーブと2人で映画のシーンのような歌詞を作った。サンセット大通りの部分は僕がハリウッドに住んでいた70年代の様子がベースになっている。夢を持ってやってきた人間の町なのに金曜の夜になると売春婦とペテン師の姿だけが目立つ・・・1972年はそんな年だった。

それを説明するとスティーブは『映画のワンシーンみたいだ!』と乗ってきた。そこで『人待ち顔で大通りに立つ人たち・・・』と言うとスティーブが『いいね!若い男女をいれよう、ジャック&ダイアンみたいな2人を深夜列車にのせよう』と提案してきた。こうして歌詞の背景になる物語が出来上がった。

行き先もかまわず夜行列車に飛び乗った若い孤独な男女の物語というのはブルーカラーの大衆が共感できるいい内容だからね」 - ジョナサン・ケイン

完成した「ドント・ストップ・ビリーヴィン」に手ごたえを感じ、オークランドにあるファンタジー・スタジオで当時の最先端の設備だったというスタジオ D でレコーディングに入った。

「この曲のベースとなっているのはロスのベースとニールのギターでマイク(共同プロデューサー)と僕は『まずコーラス部からやってみよう』と声をかけた、コーラス部のベースをもとにして和声を作りそれをピアノのベース・ラインに応用しようと考えた『ピアノも同じにしようと思ったんだ』完成した曲を聴いたとき5人のミュージシャン全員の演奏が際立つ希少な曲が生まれたことに気づいた。ギターも最高だし ピアノのイントロを聴くとだれもが引き込まれる、それにボーカルは申し分なしだ」 - プロデュサー

♪ ひとりぼっちの世界に生きてきた
小さな田舎町の女の子
彼女は夜行列車に乗った
どこというあてもなく・・・

サウス・デトロイトに生まれ育った
一人のシティ・ボーイ
かれも夜行列車に乗った
どこというあてもなく・・・

煙の立ちこめるクラブで歌う一人のシンガー
酒と安香水の匂い
笑顔ひとつで 彼らは夜を共にするのさ
それはいつまでも いつまでも続く

ブルーバードを往き来する
人待ち顔の見知らぬ男と女
彼らの影が
夜の中でお互いを探りあう

刺激を求めるためだけに生きる
ストリートライト・ピープル
彼らは夜のどこかに姿を消してゆく ♪

「僕らはみなタバコの煙が立ちこめるクラブで演奏した経験があるからあれは自分たちのことだ。酒と安香水の部屋が僕らの出発点だ、そんな僕らの出発点を貸しに盛り込みたかった。

♪ Some Will Win Some Will Lose Some Were Born To Sing the blus ♪の部分は表現を変えながら『自分を信じなければならない』と言っているんだ。

Streetlight peopleは夢を諦めずに頑張っている人たちのことだ。これは夢を諦めずに追い続けている人たちへの応援歌だ」 - ジョナサン・ケイン

♪ 勝つ奴がいれば 負ける奴もいるさ
ブルースを歌うために生まれてきたような奴もいる
ああ 終わりのない映画さ
いつまでも いつまでも いつまでも続く ♪

だれが聴いても「これぞジャーニー」だと分かるサウンド。アルバムの一曲目をこの曲が飾り、ジャーニーはついに大躍進を遂げることになる。

1981年にリリースした「エスケイプ」、このアルバムからの第一弾シングルは「クライイング・ナウ」(Who's Crying Now)で全米第4位となり、アルバムは最初の2ヶ月だけでプレスしたアルバムが全部売り切れて在庫がなくなった。

ジャーニーはついにこのアルバムで全米チャートNo1、全世界で一千万枚を売り上げるビッグ・ヒットとなった。

そしてこの「信じることをやめるな!」その前向きなメッセージはいつしか負け犬の応援歌として定着するようになった。

アメリカの大リーグにサンフランシスコ・ジャイアンツというチームがある。このチームは、この曲を全てのゲームで流して驚くことにナ・リーグチャンピオン・シップで優勝した。

そしてシーズンが終わり優勝したときスティ-ブ・ペリーはこの球場でこの曲を歌った。

「ドント・ストップ・ビリーヴィン」は弱いチームの賛歌のようになったのだ。

自分を信じて・・・

Don't Stop Believin'

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ザ・ウェイト(The Weight) - ザ・バンド(The Band)
2013-04-22 Mon 16:14
ザ・ウェイトは1968年の彼らのデビュー・アルバム「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」に収められた曲で"アメリカ音楽の原風景"と讃えられる唯一無二のサウンドは多くのミュージシャンに衝撃を与えた。

1968年に彼らのこの「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」が出たときは晴天の霹靂とでも言えるようなそんな印象で何気ない音楽でありながらあの時代にあのような音楽を作っている人たちというのは全くいなかったからだ。

時代はクリームやジミ・ヘンドリックスなんかのギンギラギンのブルース・ロックやサンフランシスコを中心としたサイケデリック・ロックのまっただ中でその中にいきなりあの渋さとはホントにびっくりするものだった。

新しいといえば新しい新鮮なサウンドではあったものの100年前のアメリカの音楽を再現していると言われてもおそらく信じられる音をしているし、現在ではちゃんと成立しているアメリカのルーツ・ミュージックというジャンルは彼らによって確立されたと言っても過言ではない。

1969年の8月、3日間にわたって行われたウッド・ストックはサイケとヒッピーを象徴するイベントとなったが、このフェスティバルの会場からおよそ北東へ80キロ、森にかこまれた静かな町ウッド・ストック。

古くから多くの芸術家が創作に適した環境を求めてこの町に集まり、69年のフェスティバルもそうした伝統にちなむものだった。

その近郊の森にたたずむ「ピンクの家」この名盤のタイトルはザ・バンドのメンバーが住んでいたこにお家から来ている。

「ビッグ・ピンク」は彼らが生活を共にしながらその唯一無二の音楽を練り上げていった場所だった。

レイドバックした音、静かに満ちてくる郷愁、土臭いアメリカそのものの音楽。

彼らの代表曲「ザ・ウェイト」は映画「イージー・ライダー」でも印象的に使われ人々の記憶に刻まれた。

それは音が描き出すアメリカでザ・バンドにしか出来ない音楽がそこにあった。

「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」ボブ・ディランの絵がジャケットを飾るこのアルバムでザ・バンドはデビューした。

アルバムをプロデュースしたのはジャニス・ジョップリンの「チープ・スリル」なども手がけた才人ジョン・サイモンだ。

「あのアルバムで何より新鮮なのはアップ・テンポのナンバーで始めなかったことで、とてもメランコリックな『怒りの涙』という曲で始まる。

彼らの発明はバック・ビートを半分に落としたことだ・・・・テンポを少し遅らせる・・・

ザ・バンドの曲はコードもメロディも典型的なロックンロールとはまったく違う、曲の構造もポップスの定石とは似ても似つかず親しみやすいのにとても複雑なことをしている。こんな複雑なことをやったのはバンドが初めてだった」 - ジョン・サイモン

ザ・バンドの5人は60年代初めから活動を共にしていてアメリカ生まれのリーヴォン・ヘルム以外はみんなカナダ人でいずれもカントリーやR&B、古いトラディショナル・ソングなどルーツ・ミュージックを良く知る若者だった。

やがてボブ・ディランのバック・バンドとなった彼らは1967年ディランと共にビッグ・ピンクの地下室にこもりプライベート・セッションを重ねた。それはバイク事故によりリハビリ中のディランがやり場のないエネルギーを注いだ実験的なものだった。

そして人々は日夜ディランと行動を共にするメンバーをあのバンド、「ザ・バンド」と呼ぶようになった。

濃密な時間の中でディランの創造性に触発されながらメンバーの豊富な知識とアイデアは自然に溶け合っていく、そうしてザ・バンド独自のロックは生み出された。

その核は、ガース・ハドソン。プロフェッサーの異名をとるザ・バンドの知恵袋。

「ザ・バンドの音にもその他の曲にもわたしは聖歌のメロディを取り入れるようにしてきた。だから多くの人がそれに気づくようで皆どこかで聴いた賛美歌のようだと思うようだ。日曜日にテレビをつけると教会で賛美歌を歌っている1930~40年代と変わらない時の歌だ」 - ガース・ハドソン

そしてザ・ウェイトについてもガースは語っている。

「あのメロディはオリジナルなのだろうか?と君は思うだろう。だが、空気中には何十万ものさまざまな音楽が漂っている。例えば賛美歌、フォーク・ソング、ジャズ、1920~30年代のポピュラー音楽など、かなりレベルの高い音楽が漂っていて我々はそれを断片的に耳にしている。

デルタ地方のブルースマンが誰かの家から聞こえてくるラジオに耳を澄ます。その音楽の断片が彼らのメロディに入っていく、そういう融合は常にあったはずだ。聴いたこともないようなメロディを作るそれは驚異的なことだ」 - ガース・ハドソン

深く豊かな音のカオス、ギターのロビー・ロバートソンによる「ザ・ウェイト」は、その歌詞の難解さでも知られさまざまな解釈がなされてきた。

♪ 俺は半ば死んだような気分で
 ナザレスの町に入って行った
 とにかく横になる場所が
 欲しかった

 "なあ旦那、教えてくれよ
 どこに行ったら寝床は見つかるんだい?"
 奴はニヤッと笑って握手して
 "ねえよ"とだけ言った

 よしきた、まかせな
 重荷を降ろして自由になりな
 その荷物は俺が引き受けるから
 遠慮なく俺の背中に乗せな ♪

歌詞全体の雰囲気を見ても寓話のような物語になっていて一つ一つの描写はそんなに分かりにくいものでもないのだが、どういう意味なのかはよく分からない。

歌詞のなかに出てくる「ナザレス」というのはあの聖書に出てくるキリストが誕生した町の名前だ。

だからかなり多くの人が聖書に関連する話だと思っていると思うんだが、このザ・ウェイトって曲はこのビッグ・ピンクの中で唯一アコースティック・ギターが使われた曲でその時に使われたギターはマーチンD-28というギターだった。

実はこのギターの真ん中に開いている丸いサウンド・ホールにその秘密らしき言葉があったのだ。

ある時、ロビーがそのギターを使って曲を作っていた時、そのギターのサウンド・ホールの中を覗いたらしい、このマーチンの工場はどこにあるかって言うとペンシルバニア州にあるナザレスなのだ。

それでロビーはそれを見て「こりゃ、面白いな!」っと、多分彼の頭の中ではこのペンシルバニアのナザレスと聖書の中に出てくるナザレスと両方を引っ掛けたアイデアだったのかも知れない。

「僕にとってザ・バンドというのはビートルズやローリング・ストーンズと同じくらい重要な存在で彼らがひとつのグループになった時そこに音楽のマジックが生まれ、メンバーの相性の良さが個性を最大限に融合させあのような音楽を生み出したんだ。

僕はその一員になれて幸せだし、僕の目の前で彼らは進化していった。ザ・バンドには名曲がたくさんあるがどれを聴いても僕は『故郷』を思う。山々の景色、育った家、カントリーとブルースがひとゆになる一番心地よいサウンドなんだ。」ジム・ウィーダー 再結成後のギタリスト

リチャード・マニュエルは1986年、自ら命を絶った。

リック・ダンコも99年に急死。

ガース・ハドソンは今なお健在でコンピュータによる音楽事業や他のミュージシャンのセッションなどにも参加し精力的に音楽活動を行っている。

「ザ・ウェイト」の作者ロビー・ロバートソンは1976年以降主にプロデューサーとして活動、4枚のアルバムを発表したが98年の「"Contact From The Underworld Of Redboy"が最後の作品となっている。

アメリカン・ロックの真髄とも言えるべき聖なる領域に踏み込んだ5人の男たちその孤高の軌跡は数々の名曲と共に決して消え去ることはない。

そして、現在ザ・バンドとしての活動は行われていない。

The Weight


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浜昼顔 ー 五木ひろし
2013-04-20 Sat 04:46
浜昼顔

森進一が猪俣公章の口ぞえで古賀政男の作品集である「影を慕いて」を発表したのは、昭和43年のことである。

古賀は森のことを「若い人だが、森君は人間の魂を歌える人だ、昔の歌でもきっと私の作品をわかってくれるに違いない」と評したという。

森と五木は共通点が多く、年齢も森が昭和22年、五木が昭和23年だが、学年は同じである。両方とも父がいなく女手ひとつで育てられたため母親思いであり、中学を出て集団就職で上京したことも同じである。

森は師である猪俣公章によって古賀とめぐり合ったが、五木は全日本歌謡選手権で十週連続で勝ち残り、その時の審査員をしていた山口洋子によって古賀に紹介された。

専属の問題があり徳間音工の五木がコロンビア所属の古賀の歌を歌うことは出来ない。

しかし、古賀はどうしても五木に自分の歌を歌わせたかった。

古賀はコロンビアのトップに直談判し新曲はダメだが、昔の古い曲ならということで了承を得、かつて藤山一郎が歌った「さらば青春」(佐藤惣之助作詞) の歌詞だけを寺山修司に依頼し新しい曲として発表されたのがこの「浜昼顔」である。

♪ 家のない子の する恋は

たとえば背戸(せと)の 赤とんぼ

ねぐらさがせば 陽が沈む

泣きたくないか 日ぐれ径

日ぐれ径


たった一度の 恋なのと

泣いてた君は 人の妻

ぼくは空行く ちぎれ雲

ここはさい涯(は)て 北の町

北の町


ひとり旅立つ 思い出に
 
旅行鞄(かばん)に つめてきた

浜昼顔よ いつまでも

枯れるなぼくの 愛の花

愛の花 ♪

浜昼顔


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アローン・アゲイン(Alone Again) - ギルバート・オサリバン(Gilbert O'sullivan)
2013-04-15 Mon 10:23
この曲は1972年にシングル・リリースされ世界的な大ヒットを記録、本国のイギリスをはじめアメリカでもビルボードの6週間連続1位となり、年間シングル・チャートの2位を獲得した。

この日本では2ndアルバム「バック・トゥ・フロント」に収録され、今までにも幾度となくCMやドラマの主題歌に起用されている。

あのポール・マッカートニーにして「僕のあとに続くのはエルトン・ジョンとギルバート・オサリバンだね」と言い、エルトン・ジョンにしては「ライバルを挙げるならギルバートかな」と言わしめたミュージシャンだ。

繊細で凝ったつくりの彼の音楽は個性的でありながら親しみやすくこの日本にも彼を敬愛するミュージシャンは多い。

このアローン・アゲインが世に出た70年代のはじめはビートルズに始まったブリティッシュ・インベイションをはじめヨーロッパ諸国、そしてアメリカなどの様々な曲がラジオから流れていた。

そんな中で登場し独自の存在感を放っていたのが「アローン・アゲイン」だった。

「僕は曲を書くのが大好きなんだ。自分の中から湧き出るのを押さえられないし、いいメロディといい歌詞をつくることに大きなよろこびと感じているよ。それができて恵まれていると思うし自分はそれが得意なんだと信じている」 - ギルバート・オサリバン

ギルバート・オサリバンは本名レイモンド・エドワード・オサリバンと言い、アイルランドで生まれ一家はギルバートが7歳のときイギリスへ移住、10代になって音楽に目覚めた彼はピアノを弾いたり友人と組んだバンドでドラムをたたいたりしていたが、やがて彼は自ら作詞作曲したりデモ・テープを作り始めた。

地元のアート・カレッジを卒業後、ロンドンに出てアルバイトをしながらプロモーションを続け、その後CBSのオーディションに受かり数枚のシングル・レコードをリリースしたもののセールスは振るわなかった。

そんなとき、ギルバートは一人の人物と出会う。それはトム・ジョーンズを世に送り出し成功を収めていたゴードン・ミルズで、その彼のレーベルで1971年にリリースした1stアルバム"Himself"(ギルバート・オサリバンの肖像)からのシングル曲"Nothing Rhymed"は全英8位を記録、アルバムも好評でギルバートは一躍人気シンガーの仲間入りを果たした。

以後、ギルバートはキャリアを積み上げて行きサリー州ウェイブリッジにあるゴードンの邸宅の近くに一軒のコテージをあてがってもらい作曲活動に専念することになった。

そしてこの親しみやすいメロディの「アローン・アゲイン」は、この豊かな緑につつまれた穏やかな暮らしのなかで誕生した。

赤ん坊をゆすりながら子守唄にもなりそうな曲なのだが歌詞の内容はとても強烈で『アローン・アゲイン』はある男が結婚式の当日に花嫁に捨てられる場面から始まる。

ギルバートはこういっている「じぶんは自殺を考えたことはない、でも、もしあのような状況になったら死にたいと思うかも・・・幸せなはずの結婚式が予想もできない悲劇に転じたらその夜ひとりになったときにこう思うかも"また一人ぽっちか、どうせそうさ"とね」

♪ 今からもう少し時間が経って
それでもまだ この荒んだ気持ちが治まらなかったら
ぼくは自分にこう約束する
近くの塔へ行き
てっぺんまで登って
身投げしてやるんだと
そうすれば みんなもわかるだろう
「打ちのめされる」のがどんなことなのかが
教会で一人立ち尽くし
「まあ気の毒に 彼女にすっぽかされたのね」
「待ってても仕方ないな」
「もう帰ろうか」という声が聞こえてくるつらさが
そしてぼくも家に帰った
また一人ぽっちさ、元からそうだけどね ♪

ギルバートの書いた「塔に登って身を投げようか」という歌詞は自殺願望をほのめかすものでポップ・ソングとしてはとても強烈だけど彼はそれを見事に歌詞にした。

♪ 過去を振り返ると
いろんな記憶が甦ってくるけれど
父が死んだときに 自分が泣いたことを覚えている
涙を隠したいとも思わなかった
その時65歳だった母は
その母も今は、天に召されてしまったけれど
生涯でただ一人愛した男性が
自分を残し、先立ったことが受け入れられぬまま
傷ついた心で一人の人生を歩むことになった

僕は励ましたけれど
母は一言も聞かなかった
そして、その母が逝った時
僕は一日中泣き明かした
また一人ぽっちだ そうさ 元からね
また一人ぽっちだ やっぱりね ♪

ギルバート・オサリバンのインタビュー

「みんなあの歌詞を結婚式でドタキャンされ自殺を図ろうという個人の実体験だと思っているようだけど・・・でも僕の母は生きているし、父は亡くなっていたけどあの曲を書いた時、父のことは思い浮かべなかったよ、父をあまりよく知らなかったんだ。

それにもし知っていたら逆に気になってうまく詞を書くことが出来なかっただろう。詞を書くときは別の人格になることができるんだ。いい作詞家は実際の経験がなくても状況を的確に理解し書くことができる。いい作詞家だけではなく、いい作家にも通じることだ。

ある状況に身を置いて当事者の葛藤を思い描く、映画監督も同じだね、こんな時にはこんな表情と想像してシーンをつくる。いい作品がつくれるかどうかはそうやって想像できるかどうかにかかっている。僕の場合ある状況を想定した時に終着点がわかってから書き始めるわけだはない。

だから想定した世界のあるところで内容が大きく変わることもあるし最初のものから微妙に変わってくることもよくある。「アローン・アゲイン」ではみんなから曲づくりのことを聞かれるんだけどあの曲を書いたのはゴードン・ミルズのコテージにいた頃で一日中曲を書いていた。

あの曲の場合もメロディが先に出来て中間部分は最初2パターンあったんだけど、どちらにするのか悩みながら歌詞を書き始めたんだけどバラードのほうがが合うと思った。

コミカルなものではなく素直に行こうと決め、そう決めたら中間部分をどちらにするかも決まったんだけどタイトルが一番時間がかかった。

どうやってあのタイトルを思いついたのかははっきり憶えていない『Naturally(やっぱりね)』のところがなぜかすんなりと思い浮かばなかったんだ。出来上がった時は特別な曲だとは思わず次の『We Will』という曲にすぐとりかかったよ」

ラブ・ソングでもロックでも作り手にとってはきっとどの曲も特別な曲だ。でも世界中のすべての人にとって特別な曲というのは、ごくわずかしかなくギルバートはそういう曲をつくった。

ギルバートはロンドンのピカデリーを歩いていたらある本を見かけたという。

その本には史上書かれたベスト・ソングの本があって「アローン・アゲイン」がその上位にあったという。

Alone Again




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娘に - 吉幾三
2013-04-09 Tue 06:41
娘に

ふるさとと家族の絆を歌いシンガー・ソング・ライターとして第一線で活躍し続けていた吉幾三。

しかし、平成6年、吉の人生に試練が訪れた。

「肺がんっぽいという話だ。

がんであればとりのぞかなければいけない。

もし、肺がなくなった場合、歌い手としては致命傷だからもう歌手としては出来ない」

吉は東京で入院した。

娘たちは青森で高校生として暮らしていたが、当然見舞いにくるという。

「今でこそ言える言葉だが、まだ余命何年とまで言われたわけではないし・・・

でももう辞めなきゃいかんな。もう歌手は終わりかも分からん。と自分の中で思った」

このとき、病床の吉か書いた曲が娘が嫁ぐときの思いを描いた「娘に」だった。

やはり作家として自分は歌えなくてもせめて曲と詞は子どもたちに残してやりたい。

それは、自分が歌わなくても娘たちが嫁ぐときに誰かに歌ってもらってもいいからお父さんが書いた歌で送ってやりたい。

そのときに書いた歌が「娘に」である。


♪ 幸せに なるんだよ 二人してきっと

涙拭き 笑い顔絶やさず いいな

母さんと話たか 女ゆえ 努め

甘えたか ありがとう

さよなら 言ったか・・・ ♪

娘に


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