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別れのブルース - 淡谷のり子
2012-09-03 Mon 12:57
別れのブルース

日本の流行歌の中には、このブルースということばのつく曲が多く、港町ブルース、柳ヶ瀬ブルース、東京ブルース、上海ブルース、とん平のヘイ・ユウ・ブルース (ちょっとマニアック) (笑) 等、数え上げたらキリがないほど多い。

これは、音楽的な理論上のことよりもきっとブルースということばの持つ雰囲気と語呂がいいのだろう。いまでこそブルースといったらドロ臭い黒人音楽の一種でどうみても日本の流行歌や演歌で歌われるブルースとはわけがちがう。

そういうことはブルースに限らず戦前、もしくは、前後に入ってきた外来の音楽はその種類がなんであれジャズと呼んでいたし、筆者にしても若かりしころ軽音楽のパーシー・フェイスを聴いていたら、年配の人がそばに寄ってきて「ああ、ジャズか、昔よく聴いたもんだ」といわれたことがあった。

だから、この舶来のブルースとかジャズとかいう音楽のとらえ方は昭和の初期のような日本の流行歌の黎明期のころと昭和の 20 年代、30 年台、40 年代という各年代ではとらえ方が全然ちがってくるのだろう。

筆者がまだ、十代の後半のころ、このブルースという音楽に興味を持ったのは、やはり当時のニュー・ロック・ブームのおかげであの E・クラプトンやジミ・ヘンなんかの影響でロバート・ジョンソンや BB・キングなんかに興味を持ったことだった。

だから、ここに紹介している淡谷のり子がブルースの女王だなどといっても何が一体これがブルースなんだ。と思ってバカにしていたフシがある。

しかし、この淡谷のり子という人は、あの藤山一郎などと同じく正式なクラシック教育を受けた人で東洋音楽学校を主席で卒業し、10 年に一人のソプラノ歌手とまで評価された人であった。

この昭和初期という時代は日本の流行歌が興り始めたころでもあり、大変な不況の時代でもあったため多くの正式な教育を受けた声楽家たちが、当時はいやしい仕事だとされていた流行歌を歌って日々の糧を得ていたのであった。

このブルースの女王と呼ばれる淡谷は、昭和 5 年 ( 1930 年) 1 月「久慈浜音頭」でポリドールからデビューしているが、初めからブルースを歌っていたわけではなく最初は外国のポピュラー・ソングなどを歌い 10 年( 1935 年) には、「ドンニャ・マリキータ」というシャンソンの曲を歌い国産シャンソン歌手の第一号ともいわれている。

窓をあければ 港が見える

メリケン波止場の 灯が見える

という有名な歌いだしで始まるこの曲は、昭和 12 年 (1937 年) 作詞・藤浦洸、作曲・服部良一によって世に出されたブルース歌謡の第一号で服部良一の「ジャズのイディオムで歌謡曲が書けないか・・・」という発案で作られたという。

この曲は、服部の手によって先にメロディが作られ、後から藤浦が詩をつけたということだが、「当時の歌詞としては、実は大変風変わりなものだった。が、ブルースの小説や長さを勘定して、私は書いたのである。題は『本牧ブルース』であった。『これ、これ!』と、服部はその原稿を右手で高く振ってくれた。気に入ってくれたのである。曲ができたのは、それから五、六日目だった。」と藤浦は回想している。

しかし、当の淡谷はこの唄は「ソプラノには無理」といって逃げていたそうであるが、口説き落とされ、その翌年にも「雨のブルース」(作詞・野川香文) を発表し "ブルースの女王" と呼ばれるようになった。

別れのブルース





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