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ふるさとの灯台 - 田端義夫
2013-04-03 Wed 13:12
ふるさとの灯台

筆者がバタヤンの愛称で知られる田端義夫の「ふるさとの灯台」を知ったのは、リアルタイムではなくずいぶん後のことだったが、その叙情的な歌詞と素朴な歌唱にその当時 (昭和 50 年頃?) の歌にはない魅力を感じたのであった。

この歌は「かえり船」と同じ作詞家の清水みのるの作で 作曲は長津義司、 歌は田端義夫によって昭和 27 年に歌われた歌なのだが、この歌を歌うときバタヤンはいつも亡くなった母を思い出して泣きながら歌った。

♪ 真帆片帆(まほかたほ) 唄をのせて通う

ふるさとの 小島よ

灯台の岬よ

白砂に 残る思い出の

いまも仄(ほの)かに

さざなみは さざなみは

胸をゆするよ ♪

バタヤンは、大正 8 年 1 月 1 日、三重県の松阪に男 5 人女 5 人の 10 人兄弟の 9 番目に生まれ、父親はバタヤンが 3 才の時、屋根から落ちて亡くなった。

そのため姉たちは次々に芸者に出され、大阪で働いていた長兄をたよりに大阪へ引越したが、やがてその長兄も蒸発していなくなり極貧の生活が始まった。

一家の食べ物はおかゆとおからしかなく、おかずは紅しょうががたまにあれば良い方で、大阪時代の六年間で夜逃げが十四、五回はあったという。

そして、着るものといえば、小学校時代に芸者に出た姉のしげのが送ってくれた学童着が一着あるだけで下着などはもちろんなく、雨の日や冬の日はパンツなしの寒さが肌にしみた。

学校に行っても弁当などはなく、昼になると教室を抜け出してたった一人で時間を過ごしていたようでバタヤンが右目を失ったのもこの貧しさゆえのことだろう。

そのバタヤンが苦労ばかりして 82 才で亡くなった母の葬式の日に紅しょうがをたくさん買ってきてそれを花びらのように薄く切って母親の棺の上にまいたことが彼の自伝に書いてある。

「ひつぎは紅しょうがの花びらで埋まり、おっかさんは紅しょうがの海の中で安らかに眠っていた。どんなにきれいな花よりも、どんなに高価な花よりも、一枚一枚切り刻んだ紅しょうがの花こそが、わたしのしてあげられる最後の親孝行でした」

♪ 漁火(いさりび)の 遠く近くゆるる

はるかなる 小島よ

灯台のわが家よ 

なつかしき 父のまた母の

膝はゆりかご

いつの日も いつの日も

夢をさそうよ


歳ふりて 星に月に偲ぶ

むらさきの 小島よ

灯台のあかりよ

そよかぜの あまき調べにも

おもいあふれて

流れくる 流れくる

あつき涙よ ♪

歌はこのようにつづく、辛い思い出があればあるほど良い歌は心に沁みる。

だが、今の享楽的な社会にはそれほどの歌が出てくるとは思えず、又享楽的な若い人のあいだにこのような歌が受け入れられるとも思えない。

ふるさとの灯台 田端義夫
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