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ユア・ソング(Your Song) - エルトン・ジョン(Elton John)
2013-01-21 Mon 16:37
ユア・ソング(Your Song)

君に届けたい歌の贈り物 「ユア・ソング」

この歌はエルトン・ジョンの二枚目のアルバム「エルトン・ジョン」"Elton John"(僕の歌は君の歌)に収録されグラミー賞にもノミネートされ(最優秀アルバム賞と新人賞)エルトンは一躍、人気シンガー・ソング・ライターの仲間入りを果たした。

アルバムの曲はすべてエルトンと作詞家バーニー・トーピンの共作により他の初期のエルトンをささえた仲間たちが結集してこの名作は誕生した。

世界のスーパー・スター、エルトン・ジョンはデビュー以来40年以上にもおよぶ活動の中でおびただしい数のヒット記録を樹立し、1972年から1975年までにリリースされた7枚のすべてのアルバムが全米No,1を獲得している。

ポップで美しいメロディづくりとエネルギッシュなパフォーマンスで今も世界中のファンに愛されつづけ1998年には、ポップミュージシャンとしては3人目の「ナイト」に叙せられた。

その彼がもっとも大切に歌いつづけているのが「ユア・ソング」でリリースされて以来この曲をカバーするアーティストは数多く後を引かない。

「ユア・ソング」の誕生は一人のポップ・スターの誕生物語とかさなり自らつむぎだす音楽の力で人々を魅了しつづける男、その誕生は彼の才能を信じてあつまった良き仲間たちとともにあった。

エルトンの9枚目のアルバム、「キャプテン・ファンタスティック」には、自らのキャリアを音楽でつづったこのアルバムは特選のリーフレットがついていてエルトンの成功までの道のりがここに描かれている。

エルトン・ジョンの本名はレジナルド・ケネス・ドワイト(1947年)でミドルセックス州ピナーという静かな町に生まれた。

彼は4歳のときからピアノを弾き始め、ロンドンの王立音楽院へ進みその後仲間と「ブルーソロジー」というバンドを結成してライブ活動をしながら自作の曲をリリースするもののヒットには遠くおよばず、レジナルドは自宅の近くのパブでよく弾き語りをしてはバンドの活動費に当てていたという。

そんな彼が成功のきっかけを見出したのは、ロンドンのデンマーク・ストリートにある音楽出版社でアルバイトを始めたことから始まった。

彼はあるとき、ディック・ジェームズ・ミュージックという会社を訪ね、そこでのいくつもの出会いがエルトン・ジョンの誕生に繋がった。

「エルトンとは1967年にディック・ジェームズ・ミュージックで出会ったんだが紹介されたときはまだレジという名前だった。派手でカリスマ的な感じの男で初めて会ったとき歌とピアノを披露してくれた。

そして目の前で彼が演奏を始めたとたんにそれまで経験したことのない興奮をおぼえた。まるでその場の空気が変わってしまったかのように曲も歌声も信じられないくらいすばらしかった。

演奏にこめられた情熱がじかに伝わってきて魔法にかかったみたいに聴きつづけたよ。そのとき、自分がミュージシャンになる夢は捨ててこの男についていこうと思ったんだ」 - スチュアート・エッブス(音楽プロデューサー)

「ある日のことだ、リバティ・レコードのレイ・ウイリアムスという男がレジ・ドワイトを連れてきた。デモをつくるためスタジオを予約していたんだ、レジは髪を長く伸ばし体重も減っていてまだブルーソロジーのメンバーだった。

最初はレジが誰だかわからなかったが彼は僕のことがすぐわかった。どこかでよく見かけたことがあるような気がしたんだが・・・

そうだ!ミルズ・ミュージックのレジじゃないか!というと『そうだよ!』って言って照れくさそうにしていたよ、前にあっていた頃は彼が太っていたのをよくからかっていたからね」 - カレブ・クエイ(ミュージシャン)

実は、このときレジナルドは応募したあるオーディションで不採用となっていた。しかし彼の才能を惜しんだ担当者はレジナルドにディック・ジェームズ・ミュージックでデモ・テープを作る機会を与えカレブとの共同作業はこうしてはじまった。

「レジは自分のことをメロディ・メーカーだと言っていた。たしかに彼はいいメロディを書く才能に恵まれていたが歌詞を書くのは得意じゃなかったんだ。だから僕らはだれかいい作詞家を捜すことに決めたんだ」 - スチュアート・エッブス

作詞家を捜していた彼らはレジナルドと同じオーディションに応募していたリンカーンシャー出身の若者で彼こそがのちにエルトンと共に多くのヒット曲を生み出すことになるバーニー・トーピンだった。

「僕たちはまるで兄弟のようで初めから素晴らしい関係を築けたんだ。ナイーブな詞にナイーブな曲がうまく調和していた。人の詞の曲をつけるのは初めてだったが楽しかった」 - エルトン・ジョン

「バーニーは優れた詩人だ単なる作詞家というより本物の詩人なんだ。バーニーから歌詞が送られてくるとレジはそれをすぐメロディにした。そして曲が出来ると聴いてもらいたくてたまらず興奮しながら電話がくるんだ『とにかく聴きにきてくれよバーニーからすごい歌詞が届いてる』って・・・

レジの演奏を聴きながらどんな風にレコーディングするか意見を出し合った。どんな楽器でどんなアレンジにするのか、ああしよう、こうしようと話し合って『よし、じゃあスタジオを確保しよう』となるとじりじりしながらその日が来るのを待ちわびた。当時はスタジオでデモテープをつくるのが僕らの生きがいだったんだ」 - カレブ・クエイ

レジナルドとバーニーはカレブの働きによりディック・ジェームズ・ミュージックと正式の契約し、レジナルドはかつてのバンド仲間から「エルトン」と「ジョン」の名前を取り「エルトン・ジョン」と改名し、こうしてエルトン・ジョンの初めてのシングル・レコード"I've Been Loving You"(1968)がリリースされた。

そんな頃エルトンにまたひとつの出会いが待っていた。のちにマネージャーとなるスティーブ・ブラウンだ。

「あるとき、部長から彼の曲を聴かされたんだけど良いとは思ったが興奮はしなかった。僕は彼のまだレコーディングもされていない別の曲も聴いていたが、僕はエルトンに本当にこんな曲がつくりたいのか?と聞いたら彼は『いえ、もっと深みのある曲だってつくれます』って答えたんだ。だから『ヒットなど気にせずに自分の書きたい曲を書いたらいい』と言ったんだ」 - スティーブ・ブラウン

こうして出来たのがスティーブによってプロデュースされた「レディ・サマンサ」でエルトンのそれまでの曲とは少し違っていてより深みのある曲だった。

スティーブがプロデュースしたこの曲をみんな気に入って「スティーブってなかなかやるじゃないか」ということになり、スティーブはエルトンの「音楽の師匠」となった。そしてエルトンの音楽はより洗練されたプロらしいものになっていった。

勢いにのった彼らはついにファースト・アルバムの制作にかかり、エルトンとバーニー、カレブそしてスティーブの力がひとつになってアルバム「エンプティ・スカイ」が完成した。

プログレ風の響きのあるこのアルバムは大きなヒットこそならなかったが批評家たちからは好意的に受け止められた。

そしてエルトンとバーニーはかつてエルトンの故郷にある母親が住んでいたアパート、フロム・コートに移り住みセカンド・アルバムの曲づくりが始められた。

当時の曲づくりの様子を2人はこう語っている。

「だいたい一時間以内には曲が出来上がる。ほとんど三十分以内だ」 - エルトン・ジョン

「この詞は朝食をとりながら書いた。2人で曲作りをしている時になんとなく思いついた。別にどうってことはなくいつも通りスクランブル・エッグを食べながら書いてたんだ。がっかりさせられる話だろ。でもあの曲はいい曲で好きだよ。」 - バーニー・トーピン

この詞とは「ユア・ソング」のことだ。

♪ こんな気持ちちょっと変だけど

僕は気持ちを隠すのが得意じゃないんだ

ぼくにはお金もない でももしあったら

2人が住める大きないえを買うのにな

もし僕が彫刻家なら あるいは旅回りの一座で

媚薬を作っていたら なんて思ってみるけど・・・

現実はこれが僕にできる精一杯のこと

僕からの贈り物は僕の歌 君に贈るこの歌

みんあに言っていいんだよ これは君の歌だって

シンプルな歌だけど もうできちゃったから

怒らないでほしいな

こんな歌詞にしたことを

君のいる人生はなんてすばらしいものかって ♪

この「ユア・ソング」が収められたのは自らの名前をタイトルにした彼のセカンド・アルバム「エルトン・ジョン」でアルバムに収録されたほとんどの曲は弦楽器などのアレンジがほどこされクラシック風のおもむきが強く、このアルバムは一作目よりもさらに強力なメンバーが加わり制作された。

「最初はオリンピック・スタジオで3~4曲をレコーディングして僕らはすばらしい出来だと思ったが、でもなぜかスティーブだけは満足しなかった。

僕は当時スティーブのアシスタントをしていたが、彼はもっと完成度の高いものに仕上げるべきだと感じていたようで、それで新しいアルバムに向けて新しいチームをつくるために人探しをすることになった。

スティーブはアレンジャーも捜していていくつかの曲でストリングスを入れると決めていたからだ、そして見つけたのがポール・バックマスターでどうやって見つけたのかは知らないが事務所に来てエルトンの曲を聴いたポールはそれを気に入ってくれた。ピアノとボーカルだけのデモだったけど最高の出来だったんだ。

それでスティーブが『誰かいいプロデューサーを知らないか』と尋ねてみたらポールはデビッド・ボウイの『スペース・オディティ』を手がけたガス・ダッジョンを紹介してくれた」 - スチュアート・エッブス

このようにして呼びかけに応じたポール・バックマスターとガス・ダッジョンの2人はアルバム作りに参加した。

「いまでは有名な話だが、彼らが初めて全員で顔合わせをしたときのことだ。ガスはエルトンとバーニーとスティーブたちが待っていた部屋に入ってくるなり、バーニーに近寄っていって話しかけ、いろいろなことを尋ねはじめ『すばらしい声だね』と言った。

エルトンは、彼は何を勘違いしてるのかって顔をして『すみません、僕がエルトンです』と手を挙げた。ガスはちょっとがっかりしたかも知れないバーニーのほうがシンガーっぽい顔をしているからね」 -スチュアート・エッブス

そして名プロデューサーとアレンジャーを得たスティーブはコーディネーターとして調整役にまわることになった。

「ガスはエルトンをめぐる人々の中でも飛びぬけて個性が強く英国陸軍の特務軍曹のように常に明快でパブリック・スクールで身につけた完璧な英語を話し雄弁で表現が巧みだった。

その彼がエルトンの曲を気に入って大きなチャレンジに出たんだ。エルトンの声と曲に大きな期待をかけてね。こうして集まったチームによってアルバム『エルトン・ジョン』はつくられた。それはまるで軍事作戦のようで会議が繰り返し召集されてアルバム制作に関する詳細のすべてがそこで決められていった」 - スチュアート・エッブス

同様の会議はアレンジを決める際にもおこなわれたといい、デモ・テープを一曲ずつ丁寧に聴きながらアイデアを出し合いポールがアレンジを行う。ポールは会議で決めたすべてのアレンジを譜面に書き起こしていた。

「今でも覚えているのはポールは音マネの天才だったってことだ。どんな楽器の音も完璧に口で再現してみせた。例えば『ベースはこんな風に弾いてほしい』と言ってはその音をマネしてくれた。音マネには独特のジェスチャーも付いていてとにかくすごく変わった男だったよ」 - スチュアート・エッブス

「当時、ポールの影響はとても大きかった。彼のおかげでそれまで聴いたことのないさまざまな音楽を聴くようになった。

この時期、僕らはたくさんの音楽を聴き多くのものを吸収していったんだ。アルバム『エルトン・ジョン』のレコーディングがはじまると噂が街中を駆けめぐり『何か新しいことをやっているらしい』と聞いていろいろなアーティストがスタジオに見学に来た。ジェフ・ベックとかデビッド・ボウイとか・・・とにかく大勢やってきた」 - カレブ・クエイ

ガスやポールを交えてのレコーディングは当時オープンしたばかりのトライデント・スタジオで行われ、当時のこのセッションのサポート・ミュージシャンの一人であったクライブ・ヒックスは言う。

「エルトン・ジョンという名前が出たかどうかは分からない私がスタジオに来たとき、彼の名前はレジ・ドワイトだった。

レジがどんな人だったかも知らなかったし最初に会った時も特に印象は残らなかった。でもその後スタジオに下りていったら、彼がピアノを弾いていて味わいのあるいいピアノを弾く人だなと思った。

レジ・ドワイトは他のだれともちがう音楽を聴かせてくれた。だから集まったミュージシャンたちもみんなセッションに参加できたことを心から喜んでいた。

何か光り輝くものがあり、それは小さなダイアの原石かもしれない・・・と思った。才能の輝きを私は確かに感じたよ・・・確かにこの曲はいい曲だね・・・

ポール・バックマスターはとても繊細な人だった。繊細な性格が繊細なアレンジに現れている。ストリングスはけっして表には出ないけれどしっかりと寄り添いこの曲を確かに支えている。

アレンジのベースになっているのはレジ・ドワイトのピアノだと思うが断言はできない、いずれにせよ質のとても高い美しい曲だよ」 - クライブ・ヒックス

アルバム「エルトン・ジョン」のリリースにあわせアメリカに渡ったエルトンは各地でおこなった激しいパフォーマンスは大評判となりエルトンの名はポップス・ファンの胸に深く刻まれえることになった。

今でも彼のコンサートでは何万もの人たちがエルトンと共に合唱する場面がある。会場のみんながとても楽しそうに一緒に歌っているんだ。そんな曲たちのトップに君臨するのが「ユア・ソング」だ。

思い描くスチュエーションはそれぞれにちがっていても何度聴いても歌詞が聴き手の心にストレートにひびき歌詞の世界にだれもが引き込まれる完璧な歌詞に完璧なメロディがついた本当にまれに見る名曲だ。

豊かな才能とそれをささえた多くの仲間たち彼らの手を経てそれはみんなの歌となった。

音楽の喜びを君に、ユア・ソング・・・

Your Song


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